昭和40年04月20日 朝の御理解



 成り行きを尊ばせて頂き、自然を大切にして行くということ。それは、そのまま神様を尊ぶことであり、神様を大切にすることだと。当時何時もそんなふうに申します。如何に神様を尊んでおります、大切にしておりますと言うても、成り行きそのものを、お粗末にしたり、自然の働きとか、自然の姿に、不平不足を言うたり、例えば、暑い寒いのことに、暑いの寒いのと口上を言うようなことではなくてです。
 それをそのまま有難く受けるということ。それを頂くということそれを讃えるということ。それが神様をそのまま讃える事であり、大事にすることであり神様を尊ばせて頂くことだと。御道の信心は私はそれだとこう思うのです。如何に神様の前にうやうやしゅう礼拝を致しましても、どんなに素晴らしいものを捧げて、神様にお礼を申し上げましても、自然を大事にせず讃えず、成り行きを尊ばずその成り行きを不足不平に思う様な事では、神様に対してそのまま、不平不足を言っているのと同じことだと。
 ま、そういうようなことを、私は皆さんに何時も申しているわけでございますが、はて、皆様、どんなもんでしょうか。そういうことが、皆さん、出来ておるだろうか。昨日、丁度、一時、二時ごろだったでしょうか。福岡の、文雄先生がやってまいりましてから、先生、私が、歯が大変悪いことを知っておるもんですから、歯の治療に私を連れて行くというわけなんです。歯を、その取られたら良いというわけで、それから、あの人の車で、津野町の歯医者に参りました。
 ほれで、まあ、歯を取って頂いたんですけども、先生、今度の新しく相談が出来ました、お屋敷のところの、敷地が、完全に、相談が出来た訳なんですから、そこを、一遍見に行きましょうと。直ぐ先ですから参りました。参りましたら、丁度、ブルトーザーが入って、一生懸命動いて、土を向こうへこう押しやっておりました。何か非常に感激いたしますですね、神様の働きが、もう始まっているんだと。
 それから先日、石浦さして結局石浦の部落ですから、あちらにあのう村寄りもさせて頂いたのでございますから、どげな村か一遍通り廻ってこうかち言う。それからこう(さいせい)の村から、石浦の部落をこう廻って、そしてまたその安田の杜というのがありますもん、それを通ってその敷地のところへ参りましたら、久富組のトラックが第一回の泥を運んで、丁度あそこへ降ろしているところでございました。
 ほんとに、昨日私、親教会に参りましてから、色々御願いを申させて頂きまして、もう、地鎮祭をせんなり、泥を扱うちゃならんと、きつくそれを言われておりましたんですけれども、ま、いろんな事情がございましたもんですから、親先生、兎に角、ほんなら、土盛を先にしなさいと、もう、ぶっ続け、続けて建築に移っても良いというような、寛大な親先生のお許しを頂いて、なら、早速そういう運びしなければならんと思うておりますから、まあだ、久富組にも何にもそんなことは連絡取ってないのです。
 ところが、久富さんとしては、そのもうこれだけ盛ってから、とやかくあるごたるならば、兎に角もう、こちらには時間が無い。日にちが無い。兎に角、明日からでもやらんと出来んというので、実は、昨日、一昨日からやるはずだったそうです。その事を、夕べも、正樹さんが来てから、本当にもう、神様のご都合ちゃ、恐れ入ります。前の日に、もし、お湿りがなかったら、私はもう、誰に言わんでん、きの、一昨日から始めたのでございました、とこういう。
 けれども、まあ、やっぱり、昨日、お天気でもございましたものですから、ま、昨日から始めさせて頂いて、しかも、お許しを頂いたのと、始めたのが一緒だった、なんの連絡もなしに。ほんとに、広大なおかげを頂きましてと言うて、正樹さんがお礼を申させて頂いておりますもん。古谷さんが自動車の中で、親先生、こりゃ、もう、親先生が、第一回の土を運んでおるときに、ここにおいでて頂いたということは、もう、地鎮祭が終わったと、いや、地鎮祭をさせて頂いたと同じこつですよと。
 勿論、私もそう感じましたですねえ。ですから、私は自動車の中から、御祈念をさせていただきました。その降ろされてる土を拝ませて頂きました。それで天地の親神様に、その事をお礼を申し上げて、天地の働きを讃えさせて頂いたわけなんです。「ね」。そうしましたら、ただいま私が、皆さんに聞いて頂いておるようなことを頂くのです。日頃、私が、成り行きを尊ばせて頂くということ。自然を讃えるということ。
 それは、神様の働きを讃える事であり、神様の働きを、神様を大事にさせて頂くことなのだということです。しかも、その自然の働きをです。「ね」。化粧する働きぞと頂きましたですね。例えば、ほんなら、女の方なら女の方がです。この素顔というのが、自然から頂いた、その姿なのです。それを、綺麗に、いわば、化粧をされるということによって、その、もって産まれた美しさがいよいよ発揮されるわけでしょうが。
 自然の働きをです。「ね」。ただ、素晴らしいなあというだけじゃなくて、それを化粧しなければ行けません。私は、このことを頂いて、はあ、なるほどそうでなからにゃいけんなと、私はもう、成り行きを尊ばせて頂くとか、自然の働きを大事にするとかということだけは、ここ十何年その事を、行じさせて頂いてきたことなのですけれども、私は、知らず知らずのうちに、いつの間にかそれに、化粧をして、讃えておったということだったのです。「ね」。
 例えて申しますなら、正樹さんがですたい。ほんとに、昨日、一昨日、もし、お湿りがなかったら、例えば、親先生のお許しを頂かんなり、もう、何時まっでん出来んちいうごたるなら、こっちはやるぞと、言うような喧嘩越しのようなことで始めなければならなかったというような事。そうでしょうが。「ね」。ところがやっぱ、そうでは合ったけれども、実際は、もうお許しを頂いておったということ。そこで、なに引っ掛かること無しに、昨日から土盛を始めさせて頂いたと。
 古谷さんが申しておりますように、親先生、もうこれは、地鎮祭をして頂いたと同じことですよと。第一回の土を運んできておるその土が、そこに、こうこぼされておる。あそこへかやされておる時に、私が、ここへ来合わせるなんて、ほんとに、神様の働きには恐れ入るという。その文雄さんの恐れ入るそれが、讃える事であり、または、そういうおかげを頂いておることを、または、話させて頂くのが化粧させていただくことだと私は思うのです。「ね」。
 昨日、私、善導寺に、お礼にでらせて頂こうとしよりりましたら、波多野さんが、あの、東京に行っている娘さんを連れてから、東京に今度帰りますから、最後のお礼に出てまいりましたと。丁度、表へ出ましたら、のと、向こうから見えたのが一緒でした。はあ、もう、先生にお会いどんが出来んなら、残念でしたけれども、丁度、お会いだけ出来て、御挨拶だけ出来て有難いと言うて、私は善導寺に行く。
 波多野さんたちは、こちらへ見える。帰って参りましたら、まあだここに居りますもん。それでその、あちらへ縁に付かれてから、子供さんが出来んのですね。その御願いがいつもしてあるんです。そこへ、丁度、野口つぁんが参り合わせておられまして、久留米の。そしてその、私が善導寺へいっとるあいだ、まあ、ここで、自分のおかげ話ば一生懸命なさっておられるわけなんですね。
 それでもう、つい、落ち着いてしまって、あの、長い間、昨日ちょっと長く掛かりましたから善導寺が。あいだ、こちらでおかげを頂きましたと言うて、帰ってここで言うておられる。その、野口つぁんの話の一部なんです。勿論、神様お取次ぎを頂いて、御願いをさせていただいておりましたが、一緒に居ります娘さんが、もう出産の予定日がもう、ちょっと過ぎておった。
 けどどうぞ親先生、あの大祭の御用に差し支えませんように、大祭にまた差し支えませんようにと言う御願いがしてあった。翌日お礼に出させて頂いてから、帰りがけにまた、何時出産のことになるやら分からんからというんで、ま、出産に必要な様々な諸道具などを買い集めて、家に帰らせて頂いた。そしたらあの美恵子さんというんですが、美恵子さん、今日はお母さんすこうし、こうおなかが痛いという。
 まあ、どうしてこう、神様の働きの素晴らしいことじゃろか。もう、何時おかげ頂いたっちゃ良かばいち。お母さんは、心の準備までしてきておると。もう、昨日の、御大祭ちゆう日ならもうどんこん、何もかも出来なかったけれど、ほんに、神様のおかげちゃ恐れ入るねと言うて、まあ、喜び合うて、それから、まもなく安産のおかげを頂いたと言う話をしているんです。
 ほうれ、見てご覧、あんたが今日お礼に出てくると言うたけんで、波多野さんの話なんですね。もう、今日でも、神ながらのことであったろうがて。汽車で行こう、バスで行こうと言いよったけれど、ある都合で、汽車になった。何とかかんとか言いよっても、汽車で来とらんならば、親先生とここで、お会いすることも出来なかったし、しかもあんたが何時も願っておる、その話、こんなおかげを受けれたこんな話を聞かせて貰うて、と言うてその喜んでおる。
 野口つぁんが、例えば波多野さんに話しておられるようにです。それこそ、神様の働きちゃ、何て素晴らしいことじゃろうかと、と感じるだけではなくて、それを人にこう伝えさせて頂いておる。それが自然を尊ばせてもらい、自然を大事にさせていただく。いわば、自然の景色をです。まあ、何と言う素晴らしい景色だろうかとこういう。というのは、これは、自然を讃えとるのである。「ね」。
 例えば、降っても、照ってもです。「ね」。それをおかげと頂かせていただくことは、自然の働きそのものを尊ばせて頂いてることである。そういうことがです。そのまま自然の働きに、いわば化粧をしているようなものであるということです。金光様のご信心を頂くものは、特に、椛目でご縁を頂くものは、もう、ここに何時も私の場合、焦点が置かれているわけなのであります。
 それは、それはもう、今度の、親先生から土盛りのお許しを頂いたり、もう、そらその、大変難しい問題があったんです。隣接教会の問題。教務所の問題。親先生の椛目に対する感情の問題。もう、それはもう、本当に、それは大変な難しい問題、その難しい問題のあいだ、椛目のほうでも、何一つ成就しなかったでしょうが。何一つち言うが、その、ここまでおかげいただいとるけれども、これから先、おかげ頂けないということがあったでしょうが。「ね」。
 それが、成就した。もうその翌日には、親先生のお気持ちの上にも、働きの上にも、まあ、それに直接御用に携わっている久富組の上にもです。「ね」。一斉に、ぱっとこう花が咲いたという感じが致しますでしょうが。その、咲いている花を、なんと言う素晴らしい咲き具合であろうかと。なんと素晴らしい花であろうかと、夕べ、またはそれを喜ばせて頂いておるということが。
 自然の働きそのものを、めでているのであり、いわば化粧しておるのであるということ。いよいよ神様に頂いておるこの、素顔も美しい事ながら、「ね」。その、(笑いながら)垢を落としたりですか、磨いたりしたその上にまた化粧をしておるようなもの。より、一段とその美しさが発揮される。それが、私は神様を現していくことであるということなんです。「ね」。皆さんが、自然の働きの中にです。
 そういうような、何と言う素晴らしい神様が、この、タイミングとこうもうします。「ねえ」。神様のそのご都合の、働きには、恐れ入ってしまうなあと。「ね」。それを恐れ入ってしまうと、ただ有難いと思うだけではなくて、それに、もう一つ化粧するような心の内にです。おかげを頂かせてもらう、実を言うたら、そうして讃えてもです。讃えても実は、讃え尽くせんのが、神様の働きなのです。
 思うようにならん。右に願っても左。左に願っても右。そういうようなときほど、実を言うたら、単なる神様のそれはどうにも出来んほどの心情を持って、親愛の思いをもって、そういう働きを下さっているのであるから、そういうことに対して一段と神様有り難うございますというような思いで、おかげを頂かせてもらい。それが、誰が見てもおかげと感じられるようなおかげを頂いたときにです。
 それをいよいよ讃えさせてもらうということ。「ね」。それが神様を現すことであり、神様の働きを、讃えることになるわけなのですから。神様もまた、私共を、ほんとに氏子のおかげでと、例えば、教祖の神様がです。天地の親神様がです。教祖の神様に、「ね」。一礼申すとか、この方、金光大神あってとかと言うて、最高の言葉を持って、褒め言葉を持って、いわば、お礼を申しておられるようなんですから。
 いわば、天地の親神様が、教祖の神様を讃えておられるようなおかげ。(ながえが?)区域合って椛目が立ったと。「ね」。いわば、(とりひろ?)あって、いわば椛目がおかげを受けたというようにです。一人一人がです。神様からお礼の言うてもらえような働きのためにです。先ず、私共は、神様に、お礼を申し上げるということ。「ね」。神様のおうた域を讃えるという信心にならせて頂かねばならんという風に思うのですよ。「ね」。   おかげを頂かれねばなりません。